二十歳、ジジババの坩堝に跳び込む

19の年に一家が離散したことは前にも書いた。
大学の授業料だけは父が工面してくれることになったが、生活費は自分で稼がなければならなくなった。以前から続けていた印刷屋でのアルバイトの他に、レコード屋の店員、競馬場内食堂の調理補助、倉庫内での移動作業、小学生相手の塾講師など、まーいろいろ。

留年もせずまんまと3年になってしまうと、そうそう講義に出る必要も、さらには意欲もなくなっていた。午前中の時間はすべてアルバイトに充てることができそうだった。そうして見つけたのが、早朝から昼前までの仕事。ビルの清掃員だった。

ビル清掃の現場。入ってみると、そこはジサマとバサマのるつぼだった。まー、当然か。といっても定年は60歳だったから、彼らの多くは50代だったはずで、今のぼくよりはうんと若かったのだが、ハタチのぼくにはシニアというも愚かなり、まぎれもないジジババ集団に見えたのだった。ほとんど半世紀前の50代は、確実に今の60代より老けていた。

あるひとりのジサマは、何を聞いても息が漏れるように「あ、そうでっか」としか言わなかったが、たまにバサマ連中から「大将!」と声をかけられると、とたんにしゃきんと背筋が伸びた。またあるひとりは、事あるごとに「わたい、心臓に難ありまっしゃろ。ここのところがきゅうっと痛みますのや」と身振り豊かに語っていた。ゴールデンバットをふかしながら。

ビル外周の植え込みに酒瓶を隠し、昼間から酩酊していたジサマもいた。寒風吹きすさぶ中、そんな外周でモップ掛けなどしていると、「ちょっとあったまりに行こうや」とぜんざいを食べに連れて行ってくれたジサマもいた。

ビルの警備にあたる隊長さんにも目をかけられた。毎朝、正面玄関前の広場で隊員たちに訓辞を垂れている偉い人だ。それを横目に、ぼくは吹き溜まりのゴミを集めて回る。顔なじみになると隊長室に招かれ、熱いお茶などいただき、学業についていろいろ尋ねられたものだった。学業。きっとこの人の目には、ぼくは健気な勤労学生として映っているのだろうなぁと思った。

子分のように連れ回してはいい気持ちになっているジサマもいたが、そういう人たちも含めて、たったひとりの若造は、まー、だいたいは可愛がられていたようだ。そして、バサマたちはときたら、それはもっと顕著だった。可愛がられたという以上に、かまわれた? いじられた? まー、物珍しかったのもあろうけれど。その話はまた改めて。