避けては通れぬ東戸塚

電車に乗る機会が少なくなって久しい。月に1、2度あるかないか。
そんなめったにない機会に、3度続けて急停止という事態に遭遇した。つり革を握っていても、立ってりゃ体が持っていかれる。つり革なしだとたたらを踏む。線路内に、踏切内に、停止信号が。その都度、そんなアナウンスが流れた。

たまにしか乗らない電車でこうだ。毎日乗っても毎回なのか。そうではなかろう。なかろうが、しかし、次に乗った4回め、すなわち一昨日は、そもそも電車が動いていなかった。朝のラッシュ時、東戸塚で人身事故があったらしい。

東戸塚。またおまえか。ぼくが出かけて行った時、すでに運行は再開されていたものの、前に何台も詰まっているとかで、少し走っちゃ停止という状態。

この日、都内に住む妹と関内で落ち合うことになっていた。叔父の葬儀以来、実に7年ぶりのことである。お互いの仕事や介護に追われるなか、ようやくランチでもとなったら、今度はコロナだ。延ばし延ばしになっていた。

先行車両に急病人が出たとかで、ぼくを乗せた電車は横浜を前にしてまた停まり、ようやく乗り換えた根岸線でも、同じ理由で桜木町を出たとたんにまた停止。妹を待たせること30分。その足で、初めてふたりで母の墓参。

この妹とぼくとは、年が8つ離れている。なので、彼女がこの世にやって来た時からの記憶がぼくにはある。というか、生まれる前から知っている。予定日が10月10日、まさに東京オリンピックの開催日だったので、ちょうどその日に出てくることを父は望んでいた。64年、日本経済右肩上がりのよき時代。

結局、開会式に5日遅れて彼女は生まれた。その日、ぼくは遠足だった。帰ると、遠く九州から手伝いに来ていた母の長姉が教えてくれた。まるちゃん、妹ができたとよ。もうお兄ちゃんたい。父にも母にも、そしてぼくにも、幸せな時代の、幸せな日の出来事だった。

妹とは、彼女が11歳の時までしか一緒に生活していない。その年、我が家は崩壊したのだ。原因は父の不祥事。実はこれが初めてではない。初回は退職と都落ちだけですんでいたが、この度は一家離散。父は義兄の会社に拾われ単身埼玉、母と妹は京都の親戚宅に身を寄せ、ぼくだけが大学に通える大阪に残った。父の不始末にはまだ先があるのだが、突っ込みどころ満載、あきれ果てること請け合いのその顛末はいずれまた。

ともあれ、そんなこんなで、関内にある墓には母しか入っていない。いずれ自分も入るつもりで父が用意した墓ではあったが、一緒には入りたくないという母の意思を、ぼくがほとんどひとりで尊重した。

曰く付きのそんな墓前、7年ぶりの再会を果たした兄と妹。「薄幸の」とか形容詞が付いてもよさそうだが、なかなかどうして。ぼくも妹も、本当にあの男の血を引く者たちかと思われるほどにまっとうだ。よく育った。自分で言う。たぶん妹もそう思っている。まっとうだ。自分たちで言う。

というわけで、その後ぼくらは横浜に移動して、食事してお茶飲んで、地下食品売り場で買い物して、そして別れた。JRのダイヤはまだ大幅に乱れており、さんざん待たされたあげくにやって来た列車は超満員。大いにうんざりさせられた。

しかし、本当のダイヤの乱れ、真にうんざりさせられる事態は、ぼくの帰宅後に起こっていた。すなわち、再び東戸塚。夕方のラッシュ時、今度はその線路沿いの枯れ草から火が出て、またも電車が止まってしまったのだ。

東戸塚、呪われる。なんの呪いだ、東戸塚。
クリスマスのXは、終日そんな投稿で埋まっていた。