うといのか、まぎらわしいのか、無知なのか

前回、群馬のバラ園を訪れた話を書きながら、またもやふと思ったことはといえば、どうもぼくは前橋と高崎を混同しているらしいということだった。

前橋と高崎。全然ちがうやん。
松村と村松のまぎらわしさに比べればなにほどのことはない。共通する文字があるわけでもなく、要はぼくが群馬に関してなじみがないというだけのことである。

どちらにも行ったことはあるが、高崎の場合は榛名湖および榛名神社に行ったのであって、そこが何市にあたるのか、そもそも群馬県なのかどこなのか、まるで関知するところではなかった。前橋も同様で、自ら進んで行ったというより連れて行かれたという感覚の方が強かったりする。

そんなわけで、バラ園に行った話をしながらも、あれ、前橋だっけ、高崎だっけと確信が持てない始末であった。なじみがないとはそういうことだ。だもんで、町田が東京なのか神奈川なのか、わからない人が大勢いても不思議じゃない。ぼくなんぞは、座間すら東京のような気がしているし。

それにしても、村松と松村。
実際、このふたりが同じクラスや職場にいると混乱する。というか、どちらかひとりしかいなくても、字面だけを見ていると妙な感覚に襲われる。

同じクラスに藤谷と谷藤、生徒に近友、教師に友近という学生時代をぼくは過ごしたが、松村と村松に比べればまったくのメイウェンティ、没問題だといっていい。ちなみに広東語だと無問題と書いてモウマンタイ。つまり、まるで問題ない。

問題は、村松も松村も木偏だらけであることだろう。
だったら木村と村木はどうか。そこまで問題ではない気がする。
というか、こんな話を聞かされて、さぞかしおもしろくないことだろう。村松さんも松村さんも。申し訳ない気持ちでいっぱいだ。