シニアのお仕事、ハロワまで

60歳で定年になった後、嘱託として4年間勤めた。
本来65歳まで勤めることができるはずが、会社にも個人にもいろいろ都合があるようで、60になったとたんに放り出された人もいれば、数年で去って行った人もいた。ぼくが知る限り、65まで勤め上げた人はわずかにひとりだけだった。

そんななかで、ぼくは64まで働いた。ただでさえ仕事量が減ってきていたところに、コロナ禍に見舞われた時期でもあり、週休4日という状態が長く続いていた。結果、自己都合ではなく会社都合での失業ということになった。

月金休業というのがいつまで続くかわからなかったので、有給休暇の消化計算をきっちりすることができなかった。少し損したようにも思う。かなりかも。ま、最後のしばらくは仕事しに行くというより、名残を惜しみに行く、へらへらしに行く、邪魔をしに行く、遊びに行くという感じだったが。

9月アタマに有休消化に入ってからは、週に5回はジムに行き、毎週のように映画を観、息子夫婦と旅行に行き、そして翌月末をもって退職。以後9ヶ月間の過ごし方はというと、旅行以外ほぼ上記と同じ。他には、暮れ以降、月に2度のハローワーク通いが加わった。

やがてもらえる公的年金だけでは生活できないというわけではなさそうだったし、これは入っていて本当によかったのだが、個人年金の支給はすでに始まっていた。なので、本気で再就職する気があるんだかないんだか、自分でもまだよくわかっていなかった。

しかしながら、失業手当受給のために定期的に通わねばならなかったハローワークは、シニアである自分が求められる職種の傾向を知るのによい場所であるにはちがいなかった。そういうビジョンを、迂闊なことにぼくはまるで持っていなかった。定年後は遊ぶことばかり考えていたのだ。

「養護学校に通う生徒の登下校の付き添い」。
そんな求人票を目にした時、にわかに思ったことがある。

これまでずっと利益ばかりを追求するような仕事に携わり、世のため人のためにはまるでなってこなかった。この先は、老後は誰かの役に立ってみたい。稼ぎたいとか思ってない。最低賃金だってかまわない。

そんな思いで、ぼくは求人票を繰ることになる。