1970年のこんにちは

万博つったら、そりゃもう70年の大阪万博でしょうとぼくら世代は思うわけだが、当時中2だったぼくには、この一大イベントの記憶があまりない。行ったのに。というか、学校行事として連れて行かれたのに。ワコール・リッカーミシン館に行ったような行かなかったような、そんな記憶しか残っていない。

あとは、九州から従兄兄弟ふたりがこのために、ウチに数日滞在していた記憶。万博会場まで連日通っていたようだ。あいや、九州から来たのは兄だけで、弟は横浜から来たんだっけ。後に弟はサンタナやCCRのレコードをくれ、ずっと後に兄はサンタナやCCRのDVDを送ってくれた。はは、似た者兄弟。

というわけで、1970年。ぼくにとってこの年の記憶が鮮明になるのは、「ヴィーナス」を聴きながら寝落ちしていた春休みからである。2週間の長きにわたって会えないことの切なさが、ぼくにラブレターなるものを書かせたのだった。1学年上の美少女に。国民的といいたいところだが、まー、学内的美少女。そこに嘘偽り誇張はない。

その返事を今か今かと待っていた。玄関先で物音がするたびに、郵便配達ではないかと身構えた。音がせずとも、何度も玄関を開けていたものだ。そんなある日、1年の時に同じクラスだったさして親しくもなかった者と、なぜか空き缶めがけて石を投げて遊んだことを覚えている。なにしとんねん。ラブレターとのこの落差。日航機よど号がハイジャックされたことを知ったのは帰宅後だった。

待ちかねていた返事がやがて届いた。封筒に貼られた切手、これを彼女はぺろりと舐めたのだろうかと思うと、13歳のぼくは切手にまで嫉妬しなければならなかった。すぐに返事を書いたが、その返信は2学期が始まるまで来なかった。悶々とした新中学2年生に、ぼくはなった。

ラグビー部の新入部員を連れて、京橋のガード下まで練習着だのなんだのを買いに行ったのはおそらく5月。ウシトラなる専門店。マークは牛と虎のふたつの首を持つ獣だったか、あるいは頭は牛で体が虎だったか。大阪城から見て丑寅の方角だったりもしたのだろうか。とにかく、ラグビー用品といえば関西ではここ一択。

帰りは京阪モールで小休止。この年、京阪京橋は大きく変わり、ファッションビルの中に駅ができた。というか、駅をすっぽりビルが覆った。「京阪モール、京阪モール、ビルの中を電車が走る」。1970年は、そんなテレビCMがさんざん流れた年でもあった。

踊り場付近でたむろしていると、かたわらにジュークボックスがあった。ボーリング場にはよくあった。スーパーマーケットにもあった。こんな所にもあるんだなと妙に感心しながら、オリジナル・キャストの「ミスター・マンデー」をかけたことを覚えている。他の曲を、ぼくはまだあまり知らなかった。

多くのことは、2学期になってから動き出す。
音楽についても、恋についても。