どんな時に幸せを感じますかという質問を、韓国語の授業中に受けた。
テキストとは関係なく、雑談の中から出てきたせいもあり、とっさに韓国語で答えられたのはほんのわずかなことだった。
「韓国ドラマを観ながら妻と一緒に過ごす時間です」
嘘ではない。これは毎日の習慣だ。
我が家では10年以上、韓国ドラマを切らせたことがない。常に何か、時には複数、必ず毎晩ふたりで観ている。ちなみに今は、新作「涙の女王」と旧作「恋慕」を観ている。
その際、手が空いているとついついお菓子を食べてしまうので、マダムの肩を揉んだり背中をさするようにぼくはしている。彼女は常に体のどこかが痛いので。図としては、床にぺたんと座ったマダムの後ろで、ぼくはソファに腰掛けている、と。
とはいえ、延々肩揉みをしているわけもなく、終えてしまえばきっちり何かを食べてしまうわけだが。でもって、翌朝の体重が前夜から大して減っていないことを連日嘆く。で、せっせとジムに通うわけだ。
ともあれ、韓国語ではあっさりそれしか言えなかったが、他にはいったいどんな時にぼかぁ幸せを感じているんだろうかと考えた。ええなぁ、よろしいなぁ、幸せやなぁと、最近しばしばぼくは思っていたりする。というか、以前なら過ぎた後にしか感じられなかった幸せを、今はその場で実感できている。それを日本語でならいろいろ言える。
まず、授業のあったその日は、天気もよくて暖かかった。教室に向かう道すがら、青い空に白い木蓮がよく映えていた。小さいけれども十分な幸せだ。この感覚は癌手術からの退院時に初めて感じたような気がする。9年前のあの時は、青い空とミモザを目にした。それを見、美しいと感じられたことが幸せだった。以後、花と緑と青空は、ずっとぼくを上機嫌にさせてくれる。
犬や猫とのふれあい、彼らの写真を撮っている時間も、わくわくうきうきして楽しい。照明が落ちた映画館での、期待と集中力が高まる時間も大好きだ。ランニングマシンで20分を超えたあたりから苦しさが消え、遠く古い友人たちに「元気でやってるでぇ」とつい胸の内で呼びかけてしまう時間も愛おしい。一丁焼きの鯛焼きを頬張る時も、息子の嫁から「お父さん」とLINEが来るのも、思わずぐふふと笑みがこぼれる。
というようなことを訥々とでも韓国語で言えるようになったら、ぼくはもっと幸せだろうさ。