盛り上がってるけどワシはそろそろ

同じクラスになったこともなければ部活もちがっていたのに、彼とはすっかり仲よくなっていた。彼は誰よりも気のきいたことが言え、誰よりもきらきらしていた。
同じ高校に進むつもりが、ぼくだけが合格して彼は落ちた。彼の母親は泣いていた。ちがう意味で、大いにぼくは落胆した。

別々の高校に進みはしたが、週末はたいてい彼の部屋で過ごした。「人間なんて」を口ずさみ、「ヤングギター」のページをめくって。大学生になっても関係は変わらなかったが、口ずさまれるのは西岡恭蔵だったり、めくられるのは「GORO」に変わった。
そして24歳の冬、半年に及ぶ神奈川との遠距離恋愛の果て、ぼくは大阪を離れることになる。その引っ越しで、トラックを運転していたのは彼だった。

以後数年は、夏になるたび彼は遊びにやって来た。結婚した年には奥さん同伴で来たりもした。大阪時代、この奥さんには部屋を貸していた時期がある。彼女が通っていた大学はぼくや彼の家からほど近いところにあったが、彼女の家は別の沿線でいったん帰るのももどかしく、授業が終わった後に彼と会うまでの時間をつぶす場所が必要だった。そこで、19の年から一人暮らしだったぼくが選ばれた。バイト、バイトで昼間はほとんど留守の部屋はまさにうってつけだったのだ。

そんな彼女がいたのにもかかわらず、ある時期、彼は二股をかけていた。ぼくの引っ越しには彼だけでなく、そのもうひとりの彼女もついて来た。どちらかというと、ぼくはこちらの彼女の方が好きだった。まだ引っ越しを決意する以前、初めて紹介された時、こんないい子をどこで見つけてきたのかと彼を問い詰めたりもしたが、その後ほどなくふたりは別れ、彼は元の鞘に収まった。

10年後、ぼくはいきなり5歳児の父親になる。母親は、二股彼と共に引っ越しを手伝ってくれたあの彼女。マダム、と今ぼくが呼んでいるその人だ。どうだ。つっこみどころ満載であろ。ふはははは。人生なにが起こるかわからない。

そして30数年が過ぎたこの2月。
心当たりのない人物に友だち扱いされて、誰こいつと開いたLINEの友だちリスト。何ヶ月ぶりかに、たまたま眺めたその中に、ぼくは見つけたのだった。ぼくとマダムを引き合わせたあの二股彼の名の下に、これまでなかったはずのメッセージが書き加えられているのを。なんだこれ。1行だけでは体をなさない文章をタップしてみた。したらば。

「○○○○は12/○○に享年66歳にて急逝いたしました。」

なんなん? え? なんで? え? なに? え? どゆこと?
なんで誰も教えてくれへんの? ぼくが遠く離れてるから?
在阪連中は知ってんねんやろ? なんで教えてくれへんの?

経緯を知ろうと連絡した兵庫と大阪の友人ふたりは、しかし、どちらもこのことを知らなかった。彼の死は、少なくとも中学時代からの友人には伝えられていなかった。
やがて同窓会の幹事でもあるひとりからもたらされた事情はこうだ。

コロナワクチンを接種したその夜に彼は倒れた。
家か出先かはわからないが、その時ひとりでいた彼は自分で救急車を呼んだ。
病院に着いた時には、なのか、着いてしばらく後に、なのかもわからないが、そこで彼は息絶えた。死因は心臓発作だったという。

すぐに連絡がなかったことを恨む気持ちなど全然ない。
LINEのメッセージは、思うにご子息の手によるものだろう。
ひと月半も過ぎてしまったけれど、ぼくは最初に気づけただけでもよかった。
ぼくもマダムも、彼とは浅からぬ縁がある。この先、大いに彼の話をして過ごそう。3年生まで女風呂に入っていたこととか、修学旅行で訪れた東京タワーで迷子になったこととか。彼にまつわる思い出話が長らくなされる場所の、うちは二番めだ。

気の合う仲間4人、彼の新婚家庭で語り合ったことがある。
おもしろい話でひとしきり皆を笑わせた後、「盛り上がってるようやけど、ワシはそろそろ失礼させてもらうわ」、そう言って死にたいものだと。
彼が言ったのか、それともぼくが言ったのか、今となってはよくわからない。その場の総意だったような気もする。彼は実現できなかった。ぼくは今も狙っている。なおさら狙い続けるだろう。その際は、感謝のことばも忘れずに。