長嶋、長嶋とやたらと世間がかしましいなか、ふと思い出したことがある。
プロ野球巨人軍が関西遠征に際し定宿としていたのは、ぼくが育った兵庫県芦屋市にある竹園旅館。
今はホテル竹園芦屋というらしいが、チームがそこに宿泊した際の練習場として、うちの近所にあったグラウンド、というか、これはもうれっきとした野球場で、ネットもブルペンも観客席までもある、どこかの銀行が所有していたそんな球場を使っていた。
だもんで、ジャイアンツが遠征してくるたび、スター選手の姿を求めて宿舎へ、練習場へと足を運ぶクラスメートがいたものだ。しかしながら、ぼくはといえば巨人のファンでは全然なかった。むしろ「けっ」と思いつつ、NとHを重ねたマークの野球帽をかぶっていた。背番号は19。贔屓していたのは南海ホークス、憧れていたのは野村。天邪鬼で反骨な小学生ではあった。
通っていた小学校の隣にマンションが建った。そもそもマンションなどということばを聞いたのは、それが最初だったかもしれない。イレブンという名のそのマンションには、阪神タイガースの村山が住んでいた。彼を訪ねてだろうか、スクーターにまたがりで国道を走るバッキーを何度か見た。
赤い顔したバッキーが走り抜けた阪神国道に、日の丸の旗を持って並ばされた記憶がある。当時の皇太子殿下ご夫妻が通られるというので、たぶん全校生徒が並んだのだと思う。手を振る美智子様を見た気がする。たぶん見たのであろう。きっと見た。いやさ、絶対見たはずだ。
と言い切ってしまえないのが、銀行グラウンドに居並んだ巨人の選手たちについてである。たまたまその姿を見たような気もする。一方で、旧友の自慢話を我が事のように改ざんした記憶のような気がしなくもない。そんなこともあったような、なかったような。そう言っておくのが無難というもの。
15年だかも少し前、20年まではたっていないと思うがそんな頃、存命だった父と妹との3人で、京都から大阪を回る旅をした。ひとりで行きたいところがあるという父と、2日めの大阪では別行動をとることになり、妹の希望でぼくらは芦屋へと向かった。彼女はここで生まれていた。
妹が生まれた産婦人科までは、さすがにぼくも覚えていなかった。なので、母に連れられて彼女もよちよち歩いたであろう道、かつて住んでいた社宅、かつて海だった場所、などなど見て回った。多くの記憶は彼女にはなかったが、三輪車に乗ったまま転げ落ちた側溝のことは覚えていた。
もうひとつ彼女に教えておこう。同じ社宅の遊び仲間数人で、例の銀行所有の野球場に入り込んで遊んでいた。最年長はぼくで、最年少は3歳だかの妹だった。そのとき尿意を訴えた妹を、ひとりで家まで帰らせた。数分の距離とはいえ、兄として連れ帰るべきだとはわかっていた。しかし、ぼくは遊びを優先した。
優先した仲間との遊びは、しかし、気もそぞろで楽しむことができなかった。家で用を足した妹がてこてこ戻ってきたときは、本当に安心した。なんとしっかりした妹だろうと感心した。そして、なんとダメな兄だろうと自分を責めた。ダメな兄の話は、彼女から他にもたくさん聞けるだろうと思う。
ぼかぁ、聞きたくないけどな。
いや、もう、長嶋とはまったく関係ないし。
なんの話しようと思てたんや。