隣のクラスで弁当を食べていた

前回のつづき。
時系列、少し戻って新生ハンドボール部。

呼び出された者のなかで入部したのはひとりだけ。誕生したのは、呼ばれなかった者主流の小柄なチーム。それもしかし1年で瓦解。厳しい指導についていけず、ひとりを残して全員退部。泣きはらした目をして座り込んでいた熱血顧問の姿を覚えている。

ラグビーの練習をしながら、それを見ていた。退部を認めるかわりに1発ずつ殴らせろと、あの時彼は言っていたのではなかったか。そこも見ていたような気がする。いや、それは後から聞いたのだっけ。全国行くまで頑張れよ、ちょっと練習きついからって薄情なやつら、と体育教師に同情する気持ちがぼくにはあった。

話がそれた。サッカー部のキタ君との話だった。2年になって、ハンドボールを辞めたふたりを迎え、クラスにはラグビー部員が5人いた。これは多数派だ。ひとりしかいなかったサッカー部のキタ君を、事あるごとに迫害した。というのは大げさで、助っ人としてラグビーの試合にも出てもらったぐらいであるから、その関係は良好だった。

よく話したのは、やはり音楽の話。「私的音楽雑誌変遷記 第1回」で、ギター雑誌に投稿せんとす自作曲の譜面を見せてくれたのがまさに彼、キタ君だった。ニール・ヤングやサンタナの話をよくしたものだ。プログレ方面では、ぼくはフロイド派、彼はELP派でもあった。

3年になってクラスが離れた。キタ君5組、ぼく6組。そして理系の7組には、2年時に同じクラスだった音楽好きやラグビー部員が多くいた。ちなみに、女子は4人。8組となると全員が男子だった。

ぼくは自分のクラスになじむことができず、ほとんど7組に入り浸っていた。あまりに態度がでかいので、「おまえ、そんなことばっかり言うてたら、もうこの教室で弁当食わせたらへんぞ」などと言われていた。

5組のキタ君とは疎遠になった。ぼくらははっきり別のグループに属していた。ぼくが友だちになれそうにない連中とつるんでいる姿を見ては、なんでそっちなん?と思っていた。

理系7組のメンバーは休み時間こそ音楽話に興じていたが、受験というものに対してはけっこう真面目に取り組んでいた。というか、はっきりいって勉強家。越境文系のぼくはずいぶん刺激を受けていた。いたと思う。4文字でいうと、切磋琢磨。あちらは数学、物理の天才、こちらは現国、日本史のて……ちがうな。

このサロンにキタ君もいればよかった。全員、現役で合格したで。国立にもとおったで。なんでこっちに来えへんかったん。

一浪の後、キタ君が大学生になって以降、ぼくと彼とつきあいはまたちがったものになっていく。まだ続く。