久方ぶりに映画の話

朝の初回上映とエグゼクティブシートにこだわっている間に上映館は減り、それもレイトショー1回きりになったりで、というか、それ以前に暑いさなかに出かける気にもなれなくて、結局「ファイナル・レコニング」は見損ねてしまった。そろそろ動画配信が始まるってんで勇んでアクセスしてみたら、購入オンリー、レンタルなし。いや、それはちょっと。

朝イチ、エグゼ。同じこだわりを持っていると「国宝」も全然買えない。夏休みが終わってしまえば「鬼滅」だって朝イチ楽勝だというのに、その人気の根強いこと。平日朝から映画かよ勢こぞって「国宝」。いいや、もう、観なくても。なんて気にもなってきた。

というわけで9月、ずいぶん久しぶりに観た映画は「パトリックとクジラ 6000日の絆」。好きなテレビ番組はと訊かれたら、迷わず「ダーウィンが来た」と「地球ドラマチック」を挙げるぼくである。NHKをぶっ潰せには賛同できないし、こうしたドキュメンタリー作品を観ない手はない。大きな画面で大きなクジラ。気持ちええよ。

続けて「遠い山なみの光」。このタイトルを覚えるのに半日かかった。しかし、その内容はというと、うーん。帰り道も帰ってからも翌日も、深く考えてしまったよ。考えを整理するのに、ChatGPTとも会話してしまったよ。まるで自分も観てきたように答える彼に笑ったよ。知りたかったのは、原作での描かれ方だったのだが。

悩みなり相談なり、自分のことを語るのに「こんな友だちがいるんだけど」というのはよくある話。「遠い山なみの光」はまさにそれを映像で表現していて、認めたくない事実は架空の二階堂ふみがしたことに、痛む良心の発露は本人である広瀬すずが担うことに。そこまではぼくにだって理解できた。

でも、あのロープは? 姉妹の年の差っていくつだった? などなど謎はいくつも残って、どうにも居心地が悪い。なので、原作についてChatGPTに尋ねてみたわけさ。したらば、もっと謎、もっと読者に丸投げらしい。まー、そういう物語だってあるわな。事実でさえけっしてひとつではなく、当事者の数だけ見方があるともいうし。まして小説、映画、作り話。

下手な考えはほどほどにして、居並ぶ広瀬すずと二階堂ふみのアップに素直に気圧され、うへー眼福などと言っているのがぼくにはお似合い。写真の年号だとか裏書きだとか、もう一度観て確認してやろうなどと思わない方がいい。好きだっ広瀬すず、のなにが悪い。

ちなみに、二階堂ふみは「地獄でなぜ悪い」での姿が大好きだ。
ついでにいうと、満島ひかりは「愛のむきだし」。
どちらもそれ観て天才だと思った。
いずれも園子(以下略)。