言語形成期を芦屋で迎える

兵庫県芦屋市。ここでぼくは育った。
若松生まれの父と戸畑生まれの母の間に福岡で誕生したのだが、銀行員だった父の転勤に伴い1歳を迎える前に兵庫県に移った。

芦屋というと邸宅居並ぶリッチな街の印象があるかもしれないが、それは概ね阪急沿線のことであって、ぼくが暮らした阪神沿線はそんな風情はほとんどなく、やたら社宅の多い街だった。ウチをはじめ主要銀行の社宅は皆あったような気がする。どの社宅にも同級生がいたものだ。

ぼくの家は30世帯が暮らす社宅の3階だった。その先には海しかなく、3階に住んでいたぼくは毎日海を見て育った。そこはまだ海水浴場だった。汚染のため後に遊泳禁止になるのだが、海の家が消え、大人と遠方からの客がいなくなっただけで、子供たちは我が物顔で遊び呆けていたのだった。

社宅にはいろいろな土地から人がやって来る。学校には常に何人もの転校生がいた。北海道から、茨城から、長野から、四国から、インドから、フィリピンから。アメリカからの転校生がやって来た日には、「オレの名前、英語でなんていうか教えれ」などと尋ねる連中がどっと湧いた。

話す言葉もさまざまだった。全国各地の訛りや言い回しが入り乱れていた。ジャンケンひとつとってもそうで、転校生が突如「インジャン」と口にした時は皆一様に驚いた。「チッケッタ」も新鮮だった。が、子供はじきに慣れる。いつしか神戸弁を身につける。ちなみに、ぼくが最初に笑ったダジャレは「何しとん? エレクトーン」だった。

言語形成期をどこでどう迎えるかというのは、意外と意味があるように思える。耳コピーというのは音楽だけに限った話ではなく、言葉についても然りなのではなかろうか。そんな耳コピー能力が、ぼくの場合は社宅暮らしの芦屋の街で鍛えられたのだと感じている。

12歳で芦屋を離れた。年々赤く濁っていった海はその後埋め立てられ、街は大きく南に延びた。少なからぬ同級生の家があった二筋の商店街も市場も消えた。なにより大きな地震の被害を受けた。避難所となった出身校の映像は、今もぼくの胸を締めつける。 

芦屋を離れたぼくの一家が次に住んだのは、大阪府門真市。以前は北河内郡門真町といったらしい。方言には耐性があったはずが、ここで大きな衝撃を受けることになる。二人称としての「自分」。なんだそれは。「自分、どっから来たん?」。誰の話? とっさに答えることができなかった。

さらには「いね」。
早ぅいね。もういねや。いなんかい。いにさらせ。
ごめん、なに言ってるか全然わからない。

「河内のオッサンの唄」がヒットするのは8年後。
町田康が世に出るのはさらにずっと後のことである。